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SONGS FROM THE NORTHERN TERRITORY 5 -Southern Arnhem Land, Bathurst and Melvielle Islands
SONGS FROM THE NORTHERN TERRITORY 5 -Southern Arnhem Land, Bathurst and Melvielle Islands
NO AIAS-5CD
Artist/Collecter Alice M. Moyle(Recorder)
Media Type LP/CD
Area 北西/北東/東/南アーネム・ランド、Tiwi、ダーウィン周辺
Recorded Year 1962-63年
Label AIATSIS
Total Time 43:52
Price 在庫なし
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TRADITIONAL ABORIGINAL MUSIC -Sounds from the Bush
南アーネム・ランドのカルト・ソング(儀式に属する歌)を多数収録。その他にもヨォルングがGUNBORGスタイルでディジュリドゥを演奏している貴重な音源も入っている。

■南アーネム・ランドの音楽概要とソングライン
■ライナーの翻訳と解説

この録音の大半は東アーネム・ランドの南にあるNumbulwar(Rose River地域)と、Ngukurr(Roper River地域)、そして南アーネム・ランドのBarunga(Bamyili)で行われた。珍しいTiwi(Bathurst島とMelville島)やDaly Riverなどの録音も収録している。LPで発売されたものの再発盤CDです。

ここに収録されているカルト・ソング(儀式に属する歌)では、基本的にディジュリドゥは伴奏として使われない。クラップスティックか、ブーメランなどとともに歌われる。そのため、このアルバムに収録されているディジュリドゥ・トラックは少ない。この『Songs from the Northern Territory』シリーズでは、クラン・ソング(言語グループに属する歌)を収録したものが、Vol. 2・3・4と3枚あるのに対してカルト・ソングはこのvol.5一枚だけである。それだけ貴重で神聖な題材について歌われているという事なのだ。

先祖がオーストラリアを旅してきた足跡はソング・ラインとかドリーミング・トラックと呼ばれ、ドリーム・タイムと呼ばれる神話の時代から語り継がれて来た特別な土地や場所、道、そしてそこにある聖なる場所や精霊などについて歌い継がれている。このアルバムでは南アーネムランドのソング・ラインと呼ばれる神世から歌い継がれて来た歌を収録している。

ディジュリドゥが収録されているのはトラック12に2曲だけだが、そのトラックはなんと北東アーネム・ランドのMilingimbiの人々が西アーネム・ランドのManingridaで習って来たGUNBORGソングを演奏しており、歌のメロディ、ディジュリドゥのサウンドともにすばらしく、Yolngu(ヨォルング:北東アーネム・ランドの言葉でPeopleをという意味で、この地域の言語圏の人々を指す)の文化圏の人々が、中央アーネム・ランドのGUNBORGを演奏しているという非常に珍しい録音である。

最後の13曲目はディジュリドゥの演奏は入っていないが、「Island Style(Torres海峡の島々から伝わってきたクイーンズランド州の本土のアボリジナルの人々の歌)」のギターと男性リード・ボーカルに加えて、大人数の子供による合唱が収録されており、涙が出そうになるくらい明るく、やさしい気持ちになる名曲です!

下記は、ライナーに掲載されているAlice Moyle博士の著述による東アーネム・ランドの音楽についての音楽概要の翻訳です。このシリーズ全5作品に共通して書かれている文章の翻訳に関しては、vol. 1のページにその全翻訳が掲載されています。ここでは文章の繰返しになるため、割愛されています。

■南アーネム・ランドの音楽概要とソングライン

ここで定義付けされている「南アーネム・ランド」とは、Carpentaria湾の南からKatherine Riverを越えた西側までの範囲を指しています。

南アーネム・ランドの南東のコーナーのRoper River地域は、重要な音楽的合流地点に位置する。60年代にそこで録音された、終わる事の無いのではないかと思える程長いソング・シリーズの多くは、はるか南の砂漠地域で一般的な歌のスタイルと似通っている。また、この地域で聞かれる一対のスティックとディジュリドゥを伴う歌のスタイルは、西アーネム・ランドと東アーネム・ランドの両方に類似している。

ここに収録されているものの多くは、東海岸のNumbulwar(Rose River付近)とNgukurr(Roper River)で録音され、その他は、ElseyとKatherineの間に位置する内陸部のコミュニティBarumga(Beswick)にて録音された。この録音に参加している人々の言語は、Mangarayi語、Mara語、Ngalagan語、Ngalkbun語、Nunggubuyu語、Ranjbarrngu語、Ritharrngu語そしてWandarang語(Nunggubuyu語と同一の言語だと考えられている)である。

アーネム・ランドにある居住地の中心地はRoper Riverミッションで、1908年にRoper River河口に設立された、辺境地域におけるChurch Mission Society(教会宣教協会)の初期の居住地である。そこでは東(Groote Eylandt)と西(Oenpelli)からの訪問者がよく見かけられる。Brisbaneを出帆し、Thursday島(Torres海峡にある島)を経て、その他の西沿岸部のミッションや、Cape Yorkとアーネム・ランドの政府による居住地に向かう沿岸部のボートや貨物船の主要ルートにあるので、この地域のアボリジナルの人々は、ノーザン・テリトリー境界線を越えて、はるか遠く離れたアボリジナルのグループと接触があった。こういった物資の供給船に乗って働くアーネム・ランドの人々は、たいていTorres海峡の島々の人々に人気のある音楽的流行を反映した歌を家へ持ち帰る。

「Ancestral Travelling Song(先祖の旅路の歌)」は、 「ソング・ライン」や「ドリーミング・トラック」とも呼ばれ、Roper River周辺地域にある特別な場所と関連がある。この種の歌は、一続きの長い曲で構成され、それぞれ似通ったメロディだが同じ歌ではなく、先祖の精霊が旅してきたルート、もしくはその一部が歌の中に表現されている。巡歴をしていた神々は、動物や爬虫類、その他は人の形をしていたと考えられており、この種の歌が属する祖先の儀礼の所有者は、そういった神々であると信じられている。

この「Ancestral Travelling Song」の特徴は、南アーネム・ランド独特のものではなく、その多くは、南、西、中央砂漠地域と、西オーストラリア州の北西Kimberley地方にいたるかなり広大な地域を通じた。その他のグループの歌にも見られる。この広い観点から見れば、「Ancestral Travelling Song」はある地域特有のスタイルというより、アボリジナルの歌唱の一つの「Class(階級)」のように思える。したがって、この「つながったClass」におけるソング・アイテムの主な特徴は下記の通りである。

  1. 一つの歌の平均的な所用時間は1分以下である。

  2. 一つの歌を通じて、同じシラブル(音節)の反復が連続的に繰り返される。

  3. 歌の伴奏には、ブーメラン・クラップスティック(Track 1)か、一対のスティックが使われる。(女性がひざをたたく音がそれに加わることもある)

  4. それぞれの歌は、声、もしくは楽器と声が同時に始められる。(一連の歌の最初の項目以外は)たまに楽器のみで始められることがある。

  5. それぞれの歌は、楽器だけで終わる。声だけで終わる事はめったになく、ボーカルと声が同時に終わることはほぼない。

  6. 聴感上認識できる高さの回数で繰り返されるメロディ豊かなモチーフ。たいてい音の連続の回数はひきのばされる。

  7. ダンス・ソングでは、パーカッシヴな伴奏が止まり、しばらくして再開する。(この停止は、ダンサー達の突然の停止と同時に起り、それぞれの歌の中で規則的に同じ場所でメロディの進行しているアウトラインで起る)

DISC 5 : ABORIGINAL MUSIC : TRAVELLING SONGS('SONG LINES') FROM SOUTHERN ARNHEM LAND ; also SONGS FROM BATHURST and MELVILLE ISLANDS and GUITAR-ACCOMPANIED SONGS BY YOUNG ARNHEM LAND SINGERS
■ライナーの翻訳と解説
Ngkurr 1963 : 1(a). Boomerang clapsticks(b). Djanbaluwa2. Yarangindjirri
Numbulwar 1963 : 3. Ngadidji women's corroboree4. Wandimulungu
Ngukurr 1963 : 5. Djarrkun
Barrunga 1962 : 6(a). Galwangara(b).Women's Djarada
Darwin 1962 : 7(a). 'Army Tent'(b). 'Bomb on Darwin'8. Song words by (a) Tautalum and (b) Pautalura9. Dance chants from Bathurst and Melville Islands10. Words by Tauntalum11. Djanba and Balgan
Milingimbi 1962 : 12(a). Songs from Maningrida(b). Songs from Cape Stewart
Ngkurr 1963 : 13. Island Dance
※曲名をクリックするとその曲の解説へ飛びます。

下記は32Pというかなりのページ数のブックレットに解説されている各曲解説の翻訳に加えて、「上記はライナーの翻訳」という文章ではじまる段落には、ディジュリドゥのサウンドを中心に、音の響きからくる聴感上の主観的な感想と各曲に特徴的な音楽的構造や楽器の特徴などのレビューが掲載されています。レビューの部分で書かれている内容はAlice M. Moyle博士が書かれたライナーとは全く関係がありません。また、レビュー部分でなされている言及は推測の域を超えるものではないという事をご了承下さい。

Ngkurr 1963
1(a). Boomerang clapsticks sounded by Ganbukbuk
最初の曲は、Wandarungクランの男性Roger Ganbukbuk(1920年生まれ)によるブーメラン・クラップスティックの演奏が収録されている。投げても帰ってこないタイプのブーメランがオーストラリアのアボリジナルの人々の歌の伴奏に広く使われており、浅い三日月型から両端が曲がった比較的刃がまっすぐのブーメランまで、その形は様々である。アーネム・ランドではある特定の種類の儀式の歌にのみブーメラン・クラップスティックが使われる(トラック 1(b)、2、3、6を参照)。

楽器としてブーメランはペアーで使われ、ブーメラン奏者でもあるシンガー自身がブーメランの真ん中をきっちりと握り、凹面に曲がった部分を向き合わせて両手にそれぞれのブーメランを持つ。ブーメランを打ち鳴らしている間中、ブーメランの曲がった両端の平らな部分を触れあわせて演奏されている。録音されているブーメランの演奏では、それぞれの打鳴らしている音の間に短い休符が、短/長、短/長という対となって聞き分けれる。

それは不規則な馬がギャロップで駆けているような効果をもたらし、歌の伴奏で聞かれる2倍(8分音符)もしくは等倍(4分音符)の規則的なビートとは対照的である。Rogerのブーメラン・クラップスティックの演奏は、3つの部分にわかれており、長く伸ばしたトレモロ、もしくはガチャガチャという音でそれぞれの部分が終わっている。


1(b). Djanbaluwa(1-5) sung by Garadji with boomerang clapsticks
当時NgukurrでMangarayi語を話す数少ない一人Nipper Garadji(1920年生まれ)による歌を5曲収録している。Nipperの名前はYibadarwunで、Garadjiという名は彼の「Ceremony Name(儀式的な名前)」だと言われていた。このソング・シリーズを創った「Djanbaluwa」は旅する精霊「Devil(悪魔)」であったとシンガーは断言していた。「Djanbaluwa」ソングの歌詞はDjingili語であると言われており、その歌はDaly Watersで始り、西の方を向き、そして北東のNgukurrへと向かう。この歌は何年も前にElsey Station(Matarankaの南の居住地)で演奏されていたもので、NipperはMataranka居住地でこの歌を習ってきたのだった。伝えられる所では「Djanbaluwa Corroboree」は、当時Daly Watersで電線をひく仕事をしていたPaddyという名の少年の夢の中に現れた歌である。

「Djanbaluwa」ソングの注目すべき点は、ボーカルの部分で同時に止まったり、2倍のスピードのクラップスティックの伴奏がメロディの進行の中のほぼ同じ場所で毎回急に止まったりしている所である。全体的な原則として、同一の言葉の単位、もしくは音節的な反復がその歌を通して繰返される。

2. Yarangindjirri(1-3) sung by Mityundurr and Ganbukbuk with boomerang clapsticks
当時Roper River Missionに住んでいたAlawaクランの男性Silas Robertsが、冒頭でこのソング・シリーズの名前「Yarangindjiri」を述べている。

キャンプの非公式の集会の最中に行われた完全な録音は43曲のシリーズからなり、ここでは最初の3曲が収録されている。Jeff Mityundurr(1898年生まれ)とRoger Ganbukbukの2人のシンガーは、ともにはるか北の地域の出身で、頻繁にNgukurrとNumbulwarの間を旅し、特に儀式が執り行われる時に訪れていた。

「Yarangindjirri」ソング・シリーズは、別のソング・シリーズ「Djarrukun」(Track 5参照)と関連があり、両方とも割礼の儀式の一部として歌われる。いろいろな名前で呼ばれ、Mandiwa、Marndiella、ManidiwalaやManduaなどと呼ばれている。1曲目の歌の意味は小さな男の子が身につける「Kurumburula(Hairbelt : 髪止め)」で、「u:-wi u:-wi」というコールで曲が終わっている。その掛け声は儀式の厳しい試練の間に、若い男の子を守るために発せられる。

Numbulwar 1963
3. Ngadidji women's corroboree(1-6) sung by Yabumana and female assistants; boomerang clapsticks sounded by Yabumanat
この歌が南東のBorroloolaからやってきた「Dream Dance」であったという事実はさておき、Numbulwarではこの「Ngadidji」ソング・シリーズについて、ほとんど伝えられていない。私は4年後の1966年に、Borroloolaで女性のアボリジナルJemima Wimaluの歌う短い「Guritje」ソング・シリーズを録音した。その最初の歌詞は「a Dreaming Woman(夢見る女性)」と訳されていた「Ngadiji」ソング・シリーズで、最後の歌詞は「Mararaba」であり、これは明らかに旅する祖先「Kunapipi」の数ある名前の一つ「Mararabana」を短くしたものである。

ある晩にNunggubuyu語を話す女性達が踊っている間中、MaraクランのシンガーJoe Yabumana(1926年生まれ)によって率いられて演奏された。Joeの突き刺すような歌声は彼を手伝って歌う女性シンガー達よりも力強い。録音が始るとすぐに踊りは終わり、男達と違って女性達は見られることをあまり好んでいたなかった。

1オクターブを越える広い音域を持つ歌の、より低い所で毎回同時にブーメランを打つ音が止まっており、この点は注目すべき所である。

4. Wandimulungu(1-6) sung by Mardi with improvised percussion(substituted for boomerang clapsticks)
ここで収録されている6曲は全部で39曲ある長いソング・シリーズの最初の部分で、ある晩Numbulwarにて非公式に演奏された。Nunggubuyu語を話すシンガーMardi(1917年生まれ)は、小さなベランダに座って、男性、女性、そして子供達からなる大人数の聴衆を指揮していた。その時はブーメラン・クラップスティックが無く、小さな缶をベランダの木製の床に打ち付けて代用していた。

Mardiの歌は、「Kunapipi」の儀式の秘密ではない部分として位置付けられている。また、Ngukurrでは「Wandimulundu」と呼ばれ、後に関係の聞き手のために演奏された。

その歌の創始者であるとされる女神が通ったルートは、「Balamumu(東アーネム・ランドの沿岸部などでYirritja半族のDhuwala語と混ざり合っているDhuwal語を話すDhuwa半族のクランによるグループ)」の人々の大地にあるRose Riverの北からはじまり、Roper Riverの南へと続き、そしてNgukurrの約32km南のSt Vidgeonへと南東に進んで行ったという事が、NumbulwarとNgukurrの両方で確認されている。その旅は、「Kunapipi」神話と密接なつながりがあるとされる、旅する人魚の旅として認識されており、その人魚はLulmara(もしくはLunmara)という場所の地中からやってきた。このトラックでMandiが歌う「Wandimulungu」ソングの最初の4曲では、Lulmaraという名前が繰返し歌われている。

5曲目の歌詞の中にある「mawuraria」は「彼女が自分自身に最初につけた名前」と訳されている。このソング・シリーズの後半では、人魚が平原にやってきて、そこで様々な鳥達に名前をつけた。その一つがBrolga(豪州鶴)である。

Ngukurr 1963
5. Djarrkun(1-17) sung by Mityundurr with paired sticks
「Djarrkun」ソング・シリーズも「Kunapipi」神話に関連しており、「Mandiwa(割礼の儀式)」の時に「Yarangindjiri」ソング・シリーズ(Track 2参照)とともに演奏される。「Djarrkun」ソングの伴奏には、ブーメランが使われる「Yarangindjiri」と違って、一対のスティックが使われるという事を強調して説明された。のちに得た情報によれば、「Djarrkun」ソングは以前に北アーネム・ランドの「Wawilak」神話と過去につながりがあり、北アーネム・ランドではブーメランは武器として使われずむしろ「Kunapipi」のような伝わってきた儀礼での儀式的な歌でのみ関連がある。

ある晩にJeff Mitjundurr自身のキャンプで、男性、女性、そして子供達が集まり、「Djarrkun」ソングの演奏が始められた。最初の曲中では、幼児の声が聞かれるだろう。Jeffは夜明けの時間まで歌い続けていた。次の日の朝、彼は著者の仕事小屋までやってきて録音を完成させるようにという要望をうけた。このソング・シリーズは残り30分程続いて録音され、彼は全部で300曲を超える歌を録音に提供した。

歌の間中を通して参加していたNgukurrの男性によれば、「Towns Creekの人魚」とも言われる祖先「Mara-abana」は蛇のような生物の腹中に入って北東アーネム・ランドから運ばれて来た。その爬虫類は、人魚を吐き出し、Towns Riverの河口付近に彼女を残して死んだ。「Djarrkun」ソング・シリーズはRoper RiverからLimmen Riverへと南に、そしてNawulburで終わる手助けの無い彼女の旅を示している。

1963年にJeffがこのソング・シリーズを歌っている間中、その背景で彼の仲間によってひっきりなしに討論が行われていた。シンガー達は互いに長いソング・シリーズの歌を演奏することにめったに同意しないという事をここで述べておきたい。この録音を聞いたNgukurrのある男性は、一つの脱落部分に気付き「JeffはYirawaridjiという場所の名前を読み上げていない。彼の歌は間違った道Djarababaに行ってる。」と述べていた。

神話によれば「Djarrkun」ソングのテーマのほとんどは、旅する女性の祖先が名前を授けた生物、植物、そして場所に関するものである。ここでの1〜17曲目までの抜粋でのテーマは、(1-2)彼女が出発した場所Marungmaruを名付ける、彼女が名付けた(3)Singray(エイ)、(4-5)Seagull(かもめ)、(6)Stork(コウノトリ)、(7)A Bushy Tree(潅木)、(8-9)Willy Wagtails(ヨコフリオウギビタキ:小鳥)、(10-11)Pelican(ペリカン)、(12)Pigeons(ハト)、(13-14)Wuluraと呼ばれる小池、(15)果樹と料理された果物、(16)適切に調理された果物、(17)収穫時の熟した果実、である。

(17)曲目は連続した順番から外れて歌われた。シンガーはその時自分の間違いを認めて、その果物は摘み取られる前に料理されたと言っていた。彼は誤りに気付いて曲中で失笑している。

人魚が「Djarrkun」ソングは女性に属するものだと言ったため、Ngukurrでは「Djarrkun」ソングを歌う事は女性の道(をたどること)だと言われていた。男性が歌う事もできるが、女性のための歌であるとされ、「この歌は女性にはすばらしすぎるので男性が奪ったんだ」と言い足された。

Barrunga 1962
6(a). Galwangara(1-3)
シンガーのNora Wuymalu(1915年生まれ)彼女自身が、ここに収録されている短いカラバリーの抜粋の名前「Galwangara(Golungaraと聞こえる)」を知らせている。カラバリーの間、男女の両方が参加し、男達がブーメラン・クラップスティックの伴奏を伴う歌を率い、たいてい女達がヒザをたたく伴奏でそれぞれの曲を終えている。「Galwangara」ソングはCarpentaria湾の南にあるBorroloolaから来たと言われている。Noraと一人の仲間の女性が後にBeswickで歌ったより長いソング・シリーズの歌詞では、英語の言葉Paper(大勢の白人がやってきてBorroloolaにいる全ての人の名前を大きなノートに書くために座っていた)、雷と稲妻(大きい嵐と風が全ての方向からやってきて、大きな雷、稲妻が木を切り裂いた。)など多岐に渡るテーマについて歌われている。トラック6a. (1)〜(2)では「dadjbi-dadjbi」という言葉がその歌詞に含まれ、Grasshopper(バッタ)と訳されている。トラック6a. (3)では「人々がひざまづいている」という事が歌われている。

6(b). Women's Djarada(1-3) sung by Wuymalu with improvised percussion(tin beaten with stick)
ここに収録されているのは、中央オーストラリアでは「Yibindji」、北、北西、北東の部族的なグループでは「Djarada(Tjarada)」と呼ばれている、男性か女性かどちらかが独占的に演奏する特定の儀式的な歌です。様々な実地研究者達はこれらの歌の役割は、恋の魅了、恋の魔法、もしくはセックスの誘惑であると述べている。

Nora Wuyamaluによれば、彼女の「Djarada」ソングはCarpentaria湾の南のYanyula語を話す人々に由来している。この特定のソング・ラインでは「Djarada」は内陸のCresswell高原へと旅し、そして北東のDaly Watersへ向かい、そこからNgukurrとBarungaへと旅をした。民族学者Catherine H Berndtは、その著作『Women's Changing Ceremonies in Northern Australia』で、「Tjarada」の力もしくは拘束力は、「Mungamunga」に由来するものだと述べている。「Mungamunga」は、「Fertility Mother(正しい訳は不明。創造母、もしくは多産母と訳されるのだろうか)」もしくは年老いた女性の儀式と関連がある二人以上の女性の神々である。

Noraの歌の歌詞は、彼女自身が翻訳したので、ある女性に関する歌だという事がわかる。彼女の夫は長い道のりをかけて仕事に行かなければならず悲しんでいる。

ノーザン・テリトリー州のアボリジナルの女性の歌の伴奏は、たいていコの字に曲げた手の平で太ももをたたくか、手拍子である。ここでは小さなスティックで缶をたたいている。

Darwin 1962
Tracks 7-13

ここに収録されている歌と詠唱は、通常それらの歌を聞くことができる地域からは離れた場所で演奏されており、様々なスタイルのミックスであることを象徴している。その内のいくつかにはオーストラリアの歌ではないものもある。

トラック7〜13の歌は、毎年開かれる「North Australian Eisteddfod」(Eisteddfodとは毎年開かれる詩人と音楽家の集まりだが、ここでは北オーストラリアのアボリジナルの音楽フェスティバルの様である)に参加するために1962年にDarwinにやってきたアボリジナルのシンガー達の二つの異なるグループに属するものである。Darwinの北西沿岸の向こうにあるBathurst島とMelville島の男子生徒達の録音は、覆いのないパビリオンで行われ、Darwinから南に100km以上南にあるDaly River Missionの男女の録音は、彼等がちょうどトラックで帰る直前に屋外で行われた。

トラック12のダンス・ソングは、明らかに西アーネム・ランドのスタイルに似ており(Disc1参照)、北東アーネム・ランドのCrocodile島で若いMilingimbiのシンガー達によって演奏された。

最後のトラックでは、オーストラリアの歌ではない曲を2曲収録しており、クイーンズランド州のCape York半島の先にあるThursday島の島民から南アーネム・ランドの人々が習った歌である。ここでの収録はギターとウクレレの伴奏でNgukurrにて1963年に演奏された。

7(a). 'Army Tent'
「Army Tent(軍のテント)」ソングは、北東アーネム・ランドの録音(Disc4 Track3)ですでに述べられている輪唱のようなポリフォニックな効果とは対照的である。この和声的な歌唱は長い間続いてきたスタイルだと、この歌を歌った少年達が述べていた。Daniel Pauitjimi作のこの歌は第2次世界大戦の時に軍隊が駐在していたBathurst島のCape Fourcryのテントについて歌われている。

7(b). 'Bomb on Darwin' sung by boys from Bathurst and Melville Island
Billy James作の「Bomb on Darwin(Darwinに落ちる爆弾)」ソングのメロディは、他の歌よりもオーストラリアのこの島の地域の伝統的な儀式的スタイルに関連がある。

8. Song words for the above spoken by (a) Tautalum and (b) Pautalura
トラック7(a)の歌詞をTautalumが、トラック7(b)の歌詞をPauntaluraが自分達の言葉Tiwi語で話しているのを聞くことができる。

9. Dance chants from Bathurst and Melville Islands sung by school boys with hand-clapping
大人の演奏者によってTiwiの人々の儀式が執り行われる時、Bathurst島とMelville島のダンス・ソング「Yoi」の主な特徴は下記の通りである。

  1. 単調な詠唱
  2. パーカッシヴな音のみが伴奏に使われる(主に、おしりを叩くか手拍子)
  3. 規則的に繰返されるメトロノームのようなリズムで曲が構成されている
  4. コールやその他の(動物や鳥などを)模倣した声で曲が終わる

蚊とミツバチであるとされる長く、高いコールで演奏がはじまる録音もある。収録されている普段着の男子学生の歌には主に4つの特徴がある。歌の内容は下記の通りである。(a)Dinghy : 小型のヨットの歌を1曲、(b)Buffalo : 水牛の歌を1曲、(c)Crocodile : クロコダイルの歌を2曲、(d)Shark : サメの歌を2曲もしくは/ibrr/rで終わる音節、(e)Boatの歌を2曲。この種の歌は、人が亡くなり墓石が立てられる時、または訪問者がある時に歌われると言われている。

10. Words for the above spoken by Tauntalum
Tauntalumがトラック9で歌われているTiwi語の歌の(b)のバッファロー歌詞を話している。

11. Songs(Djanba and Balgan) by men and women with paired sticks
このサンプルは「Djanba」と「Balgan(Balganya)」と呼ばれる二つのダンス・ソングのスタイルで、明らかにEisteddfod(アボリジナルの音楽フェスティバル)に参加するためにまとめられ、リハーサルされていた。これらの歌は、一対のスティックと手拍子に伴奏され、(歌の突然の)停止を示している。(「南アーネム・ランドの音楽概要とソングライン」の「Ancestral Travelling Song」の特徴(7)を参照)

このシンガー達のグループは、Daly River Mission(Darwinから南へ100km以上)、Port KeatsとAuvergne(この2箇所はキンバリーより北東の地域)という二つの場所からやってきた。主なヴォーカルはBarney Munggin(1910年生まれ)と女性のシンガーSugar Garbat(1922年生まれ)の二人である。

Milingimbi 1962
12(a). Songs from Maningrida
Maningridaの人々はすぐにこの曲を認識し、曲の所有者(曲のシンガーとも述べられていた)はManingridaに住み、Gunwinggu語を話すCrusoe Guningbalで、9年前にManingridaで一羽の鳥がこの歌を彼に教えたのだと述べていた。この曲名はGunwinggu語で「Mardatjin」と呼ばるラヴ・ソングである。歌詞の最も重要な部分は、「私の心は打ちひしがれている。横になって泣くために家路についている。」というものである。こういった種類の歌はManingridaでは「Borrk」と呼ばれている。

(b). Songs from Cape Stewart by Minydjun, Ngalakandi and Balimang with Djikululu(Didjeridu)
この歌を確認するのにいくつか不確かな点がある。あるBurera語を話す女性は、この曲はBiliyeiが歌うGunwinggu語の歌であり、その歌詞は「君と私はここに座って歌っている」というものだと言い張っているが、Gunwinggu語を話す人達はそれを認めなかった。

後になって、あるBurera語を話す男性が、数人のGunwinggu語を話す人々の支持受けて、その歌がDellisavilleからの「Manjangal」と呼ばれるグループに属するものだと自身を持って主張していた。彼はその歌が、Billy Manji(Disc1 Track12参照)とディジュリドゥ奏者Billy JawutjによってBagot居住区で演奏されるのを聞き、その特定のグループの内の誰もがその歌を歌えるように守ってきた。(DG)

Ngkurr 1963
13. Island Dance(1-3) performed by young men with guitar and ukulele
「Island Dance Song」と呼ばれるこれらの演奏の間中、少年達は踊っており、その動きに合せて歌っていた。そのグループは5人の年長の少年と11才から14才の約10人くらいの少年からなる。その踊りは、主に足踏み、手拍子、そしてちょっとした身振りからなり、今まで見て来たオーストラリアのカラバリーとは違っていた。少年達は、4〜5人が一列になり、一団となって動いていた。

彼等は北クイーンズランド州とアーネム・ランド沿岸部の居住地の間を定期的に往復している食料船で働くNgukurrの男達からその歌を習った。この移入してきた歌のスタイルは若い少年達の間で非常に人気があった。Cape YorkやTorres海峡の島々ではスキン・ドラム、種をガチャガチャと鳴らす音や木製のパーカッションが使われるのだが、ここではギターがその伴奏に好まれている。はるか西の西アーネム・ランドのOenpelliとBeswickでは、この種の歌は子供が歌う。

 ここに収録されている3曲の曲名は、順に(1-2)Kandjuで、Cape Yorkで話されるオーストラリアの言葉の名前である。1曲目の歌のメロディはかなりの間、Torres海峡の島々の人々とクイーンズランド州本土の人々の間で相互に伝え、伝えられてきたのだろう。(3)曲目のDinghyの歌詞は、マレー語とTorres海峡の言葉のミックスで、シンガー達はその歌詞の内容を全く理解していなかった。

当時、こういった混じりあった音楽形態がノーザン・テリトリー州のアボリジナルの人々の歌のレパートリーのかなりの部分で演奏されるようになっていた。しかしこれは別の人気のある音楽的流行の出現の前の話で、後に北オーストラリアにロックンロールとして紹介されることになる。